はじめに
はじめまして、もなかです。
ブログを見にきてくださり、ありがとうございます。
私はつい最近まで、いわゆる教育ママと呼ばれる、お受験ママでした。
受験がおわると気づけばアラフィフ。
子どもが自立へと向かう反面、寂しさも感じる今日この頃。
あれ、このままだと空の巣症候群まっしぐら?!
しかし、そんなことは言っていられないのです。
なぜなら、旦那さんが、わけって早期退職。
でも、そんな中、お受験ママのかいがあって子どもが私立中学へ入学。
家計に一切の余裕はありません。
このブログは、12年間、
教育ママとして子育て中心でパート程度の収入しかなかった私がフリーランスにチャレンジし、在宅で月収30万円を目指す記録です。
ちょっと長いのですが、私がお受験ママになったエピソードをお話しをしたら
私の人間性がよりわかると思うので、お付き合いいただけると嬉しいです。
基本情報
幼少期~中学生時代:両親の再婚、突然の集団リンチ
幼少時代
私は、東京のごく一般家庭に生まれました。
でも、幼少の頃、父が家を出ていきました。
両親がいつも喧嘩していたのを覚えています。それを見て私が泣いていたことも。
父が家を出て行った後、ときどき父は母に用事があって家に電話をかけてきました。
家で1人で留守番をしていた私は、「お父さん、いつ帰ってくるの?」と父に問うたそうです。その度に父は涙していたと、大人になってから聞きました。
家を出ていくときも、私と兄のたくさんの写真を持ち出したそう。父も、相当辛かっただろうな。そうしなければならない深い事情が父と母にはあったのでしょう。
暫く母子家庭で、小学校から帰宅しても誰もいない。年の離れた兄も友達と遊びに行ってしまう。
私は、いつも家をピカピカに掃除して、母の帰りを待っていました。母に褒めてもらい一心で。
一方で、家に帰るといつもお母さんがいる友達の家がうらやましくて仕方がありませんでした。
自分が大人になったら、こんな寂しい思いはさせない、と子どもながらに考えていました。
(それが今の在宅ワークに繋がっています。)
母子家庭なので、家計も苦しかったと思います。外食の記憶なんてありません。私は、母のお手製の洋服を喜んで着ていました。
私が小学生の頃、母は職場の人と結婚しました。
新しい父は、すごくまじめな公務員で、口数も少ない九州男児。年の離れた妹も生まれ、私も本当にかわいがりました。(今でもかわいい。)
母は再婚しても相変わらず倹約家でしたが、また普通の一般家庭で育ちました。
中学時代
地元の中学では、まじめに勉強し、成績も上位でした。
通っていた公立中は、ヤンキーと言われるグループにより荒れていましたが
そんな人たちとは縁がない生活を送っていました。
でも、ある日突然、女性の不良グループによる集団リンチに巻き込まれることになったのです。
その日の放課後は、先生たちが何かの行事でほとんど出払っていました。
中3の私は、1人で考え事をしながら、テクテク下を向いて歩いていたのでしょう。前から歩いてきた女性の先輩2人に気づかず、挨拶をせずに通り過ぎてしまった…
(これが悪魔の出来事のはじまりでした。)
すると
「今日のターゲットはこいつだ」
そう言われて私は、女性だけのヤンキーグループのところに連れていかました。総勢20名くらい。
そこでグーで顔を殴られ、お腹を拳でも足でも蹴られました。わけがわかりません。
「さようなら」と先輩に挨拶しなかったことが原因だそうです。
それだけのことで。
それから、住宅街を引きずられ、裏山の木材のある場所まで連れていかれました。大人数での大移動。私が周りから見えないように、囲むように。
途中の住宅街では、主婦2人が怪訝な顔をしてこちらをみていました。必死に私が助けを求めているのに、助けてくれない…警察にも電話してくれない…
それぐらい、その中学は荒れているのが日常でした。あの時すぐに、警察に電話してくれたら良かったのに。今でもそう思います。
山の中なんて、誰も通りません。絶望的でした。
グーで顔や体を殴られ、倒れた私を足で蹴る。何故か男子が一人もいなくて、男子の目がないから、やりたい放題の女子たち。
そのうち、小学校が同じだった女の子が、落ちていた棒を拾ってこう言いました。
「これ、あそこにつっこんだらどう?」
それを聞いて、私は(逃げなきゃ)と思い、一瞬の隙をついて走り出しました。
靴は履いていません。
「こらぁ、待て~!!」と追いかけてくる声が聞こえます。
振り返る時間も惜しんで、ただただひたすら走りました。
そして近くの知らない人の家のチャイムを鳴らし、助けを求めて中に入れてもらいました。
それから、家に電話かけ、警察沙汰になり、PTAや先生が家に来て、大騒ぎになりました。
怪我は、顔を含めた全身打撲で済みました。
次の日から学校どうしたかって?え、行きました、普通に学校。
欠席は内申点に響くと思って。それに、助けてくれる大人もいたので。
顔、腫れあがってましたが、長い髪の毛で隠して行きました。
でも、なんかヤラレルだろうと思い、鞄の中のお弁当は友達に預けました。
案の定、体育の時間など教室を空けた時に
鞄の中は荒らされていました。プリント類がビリビリに。(でも、お弁当は守った!)
不良の同級生の女子たちからは「なんで私たちの名前をチクったんだ。私たちは手を出していないだろう!!」と屋上に連れていかれました。(そんなの知らんし)
でも、私が放ったとある一言で、相手は感動して何か言ってくることはなくなりました。
それは、「(そんなに気に入らないなら)殴ってください」と言ったんです。
そしたら相手は何故か超カンゲキしていて。超絶美人の同級生にしっかり平手打ちされ(グーでなかった)、「仲良くしよう♪」と言われました。
(無理です。)
その後見回りしていた先生に見つかり、話は中断。もちろん、仲良くなることはありませんでしたが、彼女達からの攻撃はなくなりました。
とはいえ、ヤンキー集団の中でも女性グループはいくつかあったので鞄の中の手紙類を破られるという嫌がらせは数日続きました。
公立中学、くそくらえ。
言葉が悪くてすみません。
中には素晴らしい公立中もあると思います。
でも、そんなの私には関係ないのです。
子どもは私立中に入れる!
これが私が後にお受験ママになった背景です。
高校生~大学生:楽しい学生時代
中学は最悪だったけれど、高校~、大学は本当に楽しかった。
ヤンキーはいない。
環境が大事って本当にそう思います。
私立の大学に兄弟3人を入れてくれた両親に感謝しかない。節約生活だったけれど、必要なお金は貯めていてくれた。
だから、私も子どものために学費をきちんとためておきたいと思うのです。
社会人になる
小さい頃から、早く大人になって稼ぎたいと思っていました。欲しいものがあっても親に遠慮していた子ども時代だったからです。
就職活動は難航しましたが、大手の外資系IT企業に内定をもらうことができました。
そこで、次々とパソコン関係のスキルを習得し、着実にキャリアを積んでいきました。
夜23時まで残業することも多々ありましたが、残業代はちゃんと出ていたので、お給料も良かったのです。
でも、内心、この生活は将来、もし子育ができても続けられないなと感じでいました。
結婚後の海外赴任帯同と妊娠・退職勧告
仕事をバリバリやっているところで、御縁があって、結婚。
そしてすぐ夫の海外赴任が決まり、上海に行くことになります。それと同時に待望の赤ちゃんもいることがわかりました。
大好きだった仕事は、2年間の休職制度を利用することに。
「絶対戻ってきます!」
そう言って職場の皆に笑顔でお別れの挨拶をしました。妊婦で海外に帯同したのです。
ところが、ある日、国際電話がかかってきます。直属の上司ではなく、女性の部長からでした。
「帰国しても、今の職に戻れるとは限らない。営業職になるかもしれない。今、早期退職してくれたら、退職金は割増する。」
そんな内容でした。
バックオフィス業務をしてきた人間にとって「営業にまわすぞ~」、は常套の脅し文句でした。
女性部長は、上からの命令で仕方なく言われているのだと私も分かっていました。
お互いに涙ぐみながら、私は、早期退職を受け入れました。
外資系企業なので、何百人、何千人単位でクビを切ります。
退職は受け入れたけれど、そこから価格交渉に入りました。当時、退職プログラムで相当のクビを切ったはずですが、退職金は人によりマチマチです。
わたしは、海外にいて、失業保険がもらえないなどの理由を伝えマックスもらえる金額(たしか13ヶ月分)を頂きました。
私は、転んでもただは起きません。
結局、2年では帰れず、3年かかったので退職プログラムにのって良かったのかもしれません。
狂気の教育ママの12年間
仕事への情熱は子育てに向かいました。
幼児教育、週5の習い事、そして大手の中学受験塾へ。
全て送り迎えをしました。
息子は淡々とこなす子で、とにかく要領がいい。
受験直前期までゲームもしていました。2時間以上。そんな息子に、イライラ・ハラハラ。
息子は、「ママは、何を心配しているの?」
と言ってくる。
こっちは狂気に満ちているのに。
親の心配をよそに、第一志望を勝ち取ってきました。
あぁ、もう半分、子育てが終わった気分です。
これから
子どもの私立の中高一貫校の入学が決まって、これからお金がかかります。
実は、年の離れた夫は定年退職を待たずに2年前に退職しました。
早期退職です。
その後、夫は1年契約で仕事をしていますが、それが、いつ更新されなくなるかわかりません。
ピンチです。
もともと、お金は、受験が終わったら、私が本格的に稼ごうと思っていました。
それが、今なんです。
子育てしている間は、在宅ワークでお金を稼ぎたいけれど、雀の涙ほどしか稼げなかった。
大企業の看板を降ろしたら、私には何も残らなかったんです。
そんな折に、在宅ワークのスキルを身につけられるオンラインスクールに出会いました。
在宅でできることをいろいろ試してきたけれど、これが最後の砦と思い、飛び込みました。
私の目標は在宅で1年後に月30万円を得ることです。
そして「子どものやりたいことを応援し、両親にも恩返しをする」という理想の未来を手に入れます。
この目標を、どのように達成するのか、私の成長記録をまた見に来てもらえると嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。